株式会社CITABRIA代表の石田聡氏は、西麻布にあるミシュラン三つ星レストラン『レフェルヴェソンス』や豊洲にある『サイタブリアフードラボ』『サイタブリア ANNEX』など時代やロケーション、シーンに合わせた店舗の運営をしています。
同氏は自身が手掛けた最高の店舗を一度クローズし、まったく新しい店舗をつくりました。かなりハイリスクな決断ですが、それがあって念願だったミシュラン三つ星を獲得しています。スタッフの相次ぐ辞職や開業直後の震災など、さまざまな危機に直面しながらも突き進むことができた理由や、経営者としての考え方を培った根源となった経験などをうかがいました。
シェフの道を諦め、グローバルダイニングへ
- 石田さんはもともとシェフを目指しておられたとか。
-
はい。そもそも食に興味を持ったのは、調理機器の販売代理店をしていた父が地方出張のたびに買ってきてくれる特産品のお土産でした。それらを食べるのが楽しみだったんです。それから、料理を作って家族に振る舞い喜んでもらうことに楽しさを覚えました。そういったことから、シェフになろうと大阪の調理師学校に行き、東京のフランス料理店で働きました。フレンチがキラキラしていた時代でした。少し働いてみて気づいたことは、自分には才能がなかったということです。
このレストランで、自分の実力を知った、というか、同僚よりも劣っていると感じる出来事を多く経験しました。親譲りで器用だったし、料理に対する自信はそれなりにはありました。だけど、周りを見れば同僚は、料亭の息子だったり、漁港で育った者だったり、自分とは食に対する生きてきた環境があまりにも違いすぎました。そういった素質の無さを思い知らされて、シェフとして大成していくのは難しいなと思い、あっさり諦めました。
辞めてからは、横浜にある飲食店でアルバイトをしていましたが、その店を運営していた長谷川実業(現グローバルダイニング)で働くことになりました。この会社は今までの職場とはまったく考え方が違っていたんです。
- グローバルダイニング出身の方はこの業界で多く活躍しておられます。
-
今までは、飲食業界でシェフになって料理で人を喜ばせることが大事だと考えていましたが、この会社ではサービスとホスピタリティの重要性を教えてくれました。
1年目はホールでひたすら働きました。結果、2年目でアシスタントマネージャーを任せてもらったんです。こういった経験からシェフの道以外で、飲食業界でやりがいを持てる仕事を見出すことができました。
その後、2店舗の立ち上げでアシスタントマネージャーを経験させてもらい、3年目(24歳)で店長に就任しました。しかも凄腕店長の登竜門ともいえる店を任せてもらうことに。グローバルダイニングの同僚はみんな、自分の色を持っていて、店長を目指す人間が多かった。その中で任せてもらえることは本当にうれしかったですね。
店長職での失敗が経営者の道を歩むための分岐点に
-
初めての店長を経験して、とにかく目の前のお客様に喜んでもらう、そういったチームをつくらなければ間違った方向にいってしまうということを学ばせてもらいました。実際、歴代の売り上げ記録を塗り替えてやろうと意気込んでいた僕は、アシスタントマネージャーで実績を残してきた自信と、とにかく数字を上げることへの気持ちが前のめりになっていて、お客様や一緒に働くメンバーのことを考えていなかった。小手先だけでやろうとしてしまった結果、売り上げを落としてしまったんです。アルバイトやお客様とのトラブルも重なって、店長職は続けさせてもらいましたが降格になりました。
この経験は僕の人生の中で考え方の分岐点となりましたね。そこで初めて自分に本当のスイッチが入ったように思います。スイッチが入ってからはもうめちゃくちゃ働きました。すべての業務を自分事として捉えるように働いた。そこで大切にしたのは自分の意思をしっかり持つこと。ときには、メンバーからの反論にも自分のやり方を押し通すことをしてきました。なので、僕の考え方が理解できなかったメンバーは辞めていきましたね。だけど、それと同時に残ってくれたメンバーは僕の考え方を分かってくれるし、店も少しずつ変化していきました。僕の色が出せる環境が整ってきたんです。落としてしまった売り上げは半年で戻すことができました。それからは、歴代の売り上げ記録をどんどん塗り替えることに成功しました。
この店には、その後3年はいました。1,2年は前任の店長や自分との戦い、3年目はさらに売り上げを伸ばすことに注力しました。基礎をしっかりと固めていないと上手くいきません。そのうえで昨年の売り上げから足りない部分や良かった部分を分析したり、綿密な計画を徹底的に練ったりしました。
昨年と同じことをやっても上手くいくはずなんてない。お客様はすぐに飽きてしまいます。だからどんどん新しいことを考えて小さな感動を与え続けなければいけません。そうでなければ、僕の失敗からするとまさに「小手先で何とかする」と同じことだから。
実績や経験値を付けて、考え方にもベースができたころに120席の大きな店を任せてもらうことになりました。今までの40席ほどの店とは規模が異なります。40席であれば、自分がプレイヤーとしてマネジメントをすることが可能ですが、100席以上ともなると自分ひとりでは困難でしたので、自分には持っていない才能や個性を持っている人をプレイヤーとして採用し、育成することにしました。
誰にどの役割を任せようか、考えながら採用したスタッフが、自分の思い描いていた店のイメージにハマったとき、キャスティングの面白さを実感しました。その後、今度は400席のレストランを任せてもらい、ここでも実績を出し続けました。
このレストランは、3フロアで300坪ほどある場所だったので、従業員も100名ほどの組織で運営していました。これまでに、40席、120席と店舗を運営してきて、マネジメント、オペレーションづくりなど、経営につながる経験を積み上げてきました。そういった土台ができていたからこそ、400席もある大規模な店舗運営ができたのだと思います。思い返せば、このレストラン経営が自分自身のキャパシティであり、ターニングポイントでした。そして、現在につながる会社経営の第一歩だったと思います。
退社後、自分史上最高の店を手掛ける
- なのに独立されて、サイタブリアを立ち上げるわけですね。
-
実は最初から独立しようなんて考えていなかったんです。はじめて経営というものに触れることができたし恩も感じていましたが、辞める直前は、あまりの忙しさに、ただただ業務をこなしているだけになっていました。このままでは良くないなと考えていた際に、辞めていった後輩の何人かが独立したという話が耳に入ってきたんです。そこではじめて「独立」の文字が頭に浮かんで、会社を辞めることにしました。
僕はゼスト畑で単価3,000円から4,000円ほどのカジュアル店を経験してきましたが、自分の店では、カジュアル店ではなく、フレンチをベースとしたディナーレストランを経営しようと考えていました。退職直後、自分の店のコンセプトを固めるために渡米してさまざまな店を巡りました。ニューヨークの『グラマシータバーン』、カリフォルニアの『シェ・パニーズ』。これらは真逆の店ですが、すごく影響を受けた。
- 独立後は順調でしたか。
-
順調ではなかったですね、帰国後の2001年1月に会社を設立したのですが、物件探しには大変苦労しました。実績のない創業したての会社だったので簡単には契約してもらえず、何件か貸し手に断られていました。その後に出会った物件で新しい第一歩を切り開くことになりました。この物件は都会の喧騒から離れた静かな場所にあったんです。そこを見た瞬間にレイアウトが自然と頭に浮かんできました。
同年9月にサイタブリアを開業しました。情報誌などを使った宣伝は一切行わず、口コミだけで認知度を広げていくことを決めていました。最初こそお客様が来なくて心配していましたが、自分のやり方を貫いた結果、ちょっとずつ新規客や再来店客が増えてきて、3ヵ月ほどでブレイクしました。
今でもこの時の店が自分史上最高の店だと思っています。でも長くやるうちに、限界を感じるようになりました。
変化に対して常にアクションを
-
僕は店にずっといたし、主役をはれるサービスマンも複数いましたが、「今は僕やプロフェッショナルなスタッフたちがいるから店が成立しているけど、この体制でいつまで続けられるのか?」みたいなことを考えるようになった。そんなときにリーマンショックがあって海外勢が来なくなりました。リーマンショック後は、高級店や専門店は非常に苦しんでいた。周りの飲食店では価格を下げて、時代を乗り越えようとする店舗が増えました。サイタブリアもある意味その岐路に立たされていました。ケータリング事業やカジュアル店の『ローダーデール』をやり始めたのもそのころです。そのタイミングにグローバルダイニング時代に一緒に働いていた生江がイギリスから帰国して連絡をくれた。生江をサイタブリアに迎え入れ、総料理長に据えて、改革していこうということになった。
改革するならこれまでのイメージを払拭する必要があったので、内外装はもちろん、名前も一新しました。料理は生江が学んできたフレンチガストロノミー。そして、レストラン名はサイタブリアから『レフェルヴェソンス』に変更し、席数を半分にして、料金を倍にしました。
時代の流れとは反対に進んでいたので、周りからは「石田はおかしくなったのか?」と言われました。でも、自分たちが生き残るにはこの道しかないと思っていました。この改革によってスタッフは半分辞め、お客様の9割を失いました。
今までのお客様を失うのはショックでしたが、お客様の層が変わったんです。生江の知り合いのジャーナリストの方やフーディーの方々が多く来てくれるようになりました。今までとはまた違う世界が広がっていったことに面白みを感じました。サイタブリアを経営してきたときは星が付くということがどういうことなのか、わかっていませんでした。三つ星を経験してきた生江と、とにかく何度も話し合い、彼がミシェル・ブラスやファットダックで学んできたことを自分も理解するよう努めました。
そして半年経ってやっと兆しが見えてきたころに、今度は東日本大震災です。この時期が実は一番きつかった。資金繰りのために僕は駆けずり回りました。生き残ればなんとかなるとの思いで必死でした。必死で凌いでいたら、その年の末にミシュランの一つ星をいただくことができました。その後、すべてが好転し始めました。どうしたらミシュランの星を取れるのかってよく訊かれることがありますが、結局、絶対の正解はありませんが、自分はやるべきことを信じてやり続けてきただけです。だから訊かれたら、「最後まで諦めなかったから」って、僕は言っています。
コロナ禍でも自分たちはレストランのクオリティをあげるために、さまざまな努力をし続けて、最終的にフランス料理のカテゴリーで三つ星をいただくことができました。
オーナーの役割は、シェフの思いを実現できるためのサポートをすることだと思っています。お互いが納得して決めたことを形にするために、シェフは料理を追求し僕はマネジメントしサポートをする。お陰様でコロナ禍でも、歩みを止めることなく前を向いていられました。生江個人のブランドができましたし、レフェルヴェソンスもブランドになりました。
- コロナになってすぐ始められたスマイルフード・プロジェクトもいいメッセージでした。
-
スマイルフード・プロジェクトは、コロナ禍でひっ迫する医療現場を料理の力で応援したい、という思いで立ち上げたプロジェクトです。飲食店経営者として役立てることができるのは今なんじゃないか、何かできることはないかと思っていたんです。そんな時に、ちょうどフレンチレストラン『シンシア』の石井シェフがSNSにポストした話に共感して、直接連絡したらとんとん拍子に話が進んで立ち上がったプロジェクトでした。東日本大震災の時は炊き出しに1回行けたくらいで、余力のない自分の力のなさを痛感していましたから、今回はスピード感を持って動いて、やりきることができました。
- JFDAでの活動や役割について教えてください。
-
(株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長の)秋元さんから声をかけてもらったことがきっかけでしたが、最初は、この集まりに参加することは場違いではないかと思っていました。今まで、同業者の集まりに顔を出すことも少なかったですし、大規模な店舗を展開しているわけではなかった。でもこの団体なら、自分ひとりではできないようなことができるかもしれないと思いました。店を改革したり星を取ったりしてきたのは、日本の飲食業界を少しでも良くしていきたい、飲食業界で働く人たちの社会的地位を向上していきたいと思っていたからです。日本の飲食業界をけん引してきたみんなとなら、そういった想いを形にしていくことができるのではないかと感じました。僕の役割は、業態間、世代間を超えた人を巻き込んでいき、刺激を与える役割を担っていると思います。
JFDAの活動はコロナ禍で明確になったかもしれませんね。業界がひとつになって変えていかないと、直面する問題は解決できない。食文化の継承なども誰かがその役割を担わなきゃと思うようになったんです。その流れがコロナでより強くなり、食団連の結成へつながっていったのだと思います。今JFDAはセミナーや意見交換会を定期的に行い、発信を続けています。
レストランは“価値”を提供していくのかを追求すること
- 今後のレストラン・シーンをどう見ておられますか。
-
本音を言うと100年規模で考えたら絶望的かもしれません。環境問題をはじめ課題は山積です。だからこそ身近な1年2年が大事だと思っています。そして自分は何を残せるのだろう、と考えています。コロナがきっかけで業界は淘汰されたように見えますが、今後はテクノロジーが加速してDXが進み、同時に2極化も広がるのだと思います。テクノロジーを駆使して無人化していかないと成立しないサービスは増えるでしょう。これはこれでいいと思います。
もう一方は、つくる、伝えるといった価値をもっと高めていくということです。つまり人間の価値を高める、そしてそれを対価としてちゃんと評価できる産業にしていくということでしょう。
- これからこの世界に参入してくる人へのメッセージがあればお願いします。
-
僕は今、若い人たちに経営を教えているんです。そこでは、“能力が低い人ほど独立を意識しなさい”と言っています。能力が高い人は会社でも求められますし、もちろん独立も視野に入れられます。でも自分を見つめることもせず能力の低いまま組織にぶら下がっていたら、いつ切られるかわからない。自分がどんな形でもこの業界で生きていけるように、真剣に考えなさい、と教えています。
才能の差はどこの世界でもあります。それは仕方ない。でもその人なりの働き方が必ずあるんです。個人が個人に応じた形でいいからちゃんと対価をつけていくこと。それが大切です。
経営では、まず何を売っているのか?商品は何なのかを理解すること、そしてそれがブレないことが大事だと考えます。レストランは時間という価値を提供することだと僕は思っています。美味しい料理、よりよいサービス、空間。これらによって時間の価値が変わります。その価値の対価をしっかりと考えていくこと、ここがレストラン経営には一番大切だと思っています。